Saturday, July 23, 2011

書評+タイガー・マザーをめぐる議論を考える (Nikkei Voice, July/Aug, 2011 掲載)

“Battle Hymn of the Tiger Mother” by Amy Chua

今年上旬に出版されて以降、メディアで数多くの賛否両論を引き起こした本著は、イエール大学法学部教授エイミー・チュアの子育てに関するメモワール。最初に書評が発表されたウォールストリート・ジャーナルでは、「なぜ中国式の子育てが優れているか」というセンセーショナルなタイトルが掲げられていたり、「子どもの自尊心ばかり気にしている西洋式では結局子どもは何も成し遂げることができない」といったコメントに表れるような、北米社会で浸透している子育てのやり方を否定的に描いていることから大反響を浴びた。The Globe and Mail紙によれば、この本が出版されて以降、エイミー・チュア宛てに「子ども虐待」「最悪の母親」といったメールが殺到したという。

本著を読み終えて思うのは、いかにメディアがセンセーショナルな描き方をしてきたか、ということだ。確かに、著者は「中国式の子育ては優れている」と信じている。しかし、この本は、次女ルルの反抗にあった挙句、中国式では手なずけられない場合もある、という点に気付いた著者の記録だと、私は読んだし、実際、この本のサブタイトルはこうなっている。「本著は子育てに関しては西欧のやり方より中国系のやり方の方が優れている、という本になるはずだった。しかし、実際には、激しい文化的衝突、つかの間に味わった勝利、13歳の娘がいかに私を謙虚にさせたかを綴った記録となった」。

中国式は従順な長女ソフィアにはうまくいった(ように見える)。しかし、性格的には「著者そのもの」である次女ルルとの熾烈な戦いの末(旅行先モスクワのカフェでの驚くべき大喧嘩!)、著者は最終的に「選択肢を与える」という、彼女が嫌った西洋的なやり方にトライしてみるのだ。表面上は「中国式の方が優秀」と主張してはばからない著者だが、よく読んでみれば、ハードルが立ちはだかるたび何度となく密かに自分の信念を疑問視し、葛藤している様子が描かれている。彼女がこの本を書き始めたのは、モスクワから帰った後だというのは意味深い事実だと思う。

私が読んだ書評の多くはこの点を故意に避けたか、触れても最小限に留めていた。メディアは、「中国式の子育てが優れている」というテーゼが、西欧的価値に対する大きな挑戦であることに目をつけ、「売れる」と踏んだ末に、その部分だけを意図的にデフォルメしたのだと思う。結果的に見ればこうした賛否両論は本著に対する最大の宣伝効果になったし、したたかな著者のこと、内心ほくそえんでいることだろう。

しかし、メディアが喜ぶ、このような二分対立の図式を買ってもよいものだろうか。また、子育てのやり方を「西洋式」「中国式」という真っ向から対立するものとして描くエイミー・チュアの方法論を買ってもよいのだろうか。著者の子育ては、何も「中国式」とは限らず、「スパルタ式」とか「エリート教育(音楽家やスポーツ選手を育てるやり方)」という言い方でも表現できるし、西欧社会でもこうしたやり方で育てている親はいるはずである。著者も実は、「中国式」が何も中国系家庭特有のものではなく、ポルトガル系家庭でも、イギリス系家庭でも見られる、と言う。しかし、そう言いながらも、やはり自らの育て方を「中国式」と言ってはばからない。チュアの夫が言うように、彼女には「西洋のやり方」、「中国式のやり方」とステレオタイプ化する傾向がある。こうした類のステレオタイプは、実は今年初頭、話題になったマクレーン誌のToo Asian記事をめぐる論争でも現れ、他でもない、メディアにとっては大きな利益に結びついた。
数十年前、アイビー・リーグにユダヤ系学生が増え始めたころ、「ジューイッシュ・マザー」は「教育ママ」と同義であった。それが今回、ドラゴン・マザーに代わっただけである。国際政治におけるアメリカのヘゲモニーが崩れた今、「チャイニーズ・マザー」という言葉が北米社会にもたらす意味は、単なる「教育ママ」以上に、中国文化に対する羨望や畏怖といったさまざまな感情をも反映しているのであろう。

というわけで、私は著者のアプローチを「タイガー・マザー・アプローチ」と呼ぶことにしたいが、この子育てには、素晴らしい点があると同時に、問題点もあることを考え合わせなければなるまい。たとえば、プリンストン大学のピーター・シンガー(バイオエシックス)は、このアプローチは「たしかにエリートをつくりだすかもしれないけれど、子どもがそれで幸せになれるかどうかという点は意識的に無視されている」点を指摘する。子どもの成績はすべてAを期待しながら、協力と協調が要求される体育と演劇を除外している点、音楽や勉強といった単独で成功を収められるものだけを重要視していることから、この方法では社会生活で必要なSocial Skillsを獲得できないうえ、友達や周囲を「なかま」としてではなく「競争相手」として見る傾向を助長する。結果、子どもを社会的に孤立させ、真の喜び、幸せである「コミュニティのなかで協調的に生きる」側面を子どもから奪ってしまう可能性がある。アメリカのアジア系女性にとりわけ多い自殺やうつ病といった精神障害も、親からのプレッシャーと社会性を身につけられなかったことが原因かもしれない、とシンガーは指摘する。

親として私が著者にひとつ共感することがあるとすれば、それは子育てに関する親のコミットメントという点である。エイミー・チュアは困った人だと、本著を読みながら何度も思った。もし、まわりに彼女のような母親がいれば、私はさっさと逃げ出すだろう。彼女が何と言おうと、私には彼女が物質主義に見えるし、エリート主義だと思う。ただ、母親としての彼女のコミットメントは例外的だ。大学の仕事をしながら、毎日五時間、二人の娘のピアノとバイオリンのレッスンに付きっ切りでコーチし、毎週土曜日には片道二時間、車を運転して子どもをバイオリンのレッスンに連れていく。子どものためなら時間も努力もお金も惜しまない。子どもの傍で、子どもを観察しながらの子育ては、大変な努力を要する。しかし、子どもに何かを教えようと思えば(あるいは子どもから何かを学ぼうとすれば)「深いかかわり」が必要だ。エイミー・チュアが例外的なのは、そうした深い親子のかかわりの中で立ち現れる葛藤や対立を恐れることなく受け止め、目標に向かって邁進していく態度である。The Daily Telegraphのアリソン・ペアソンが主張するように、「エイミー・チュアの子育ての方法は過酷なものではあるけれど、子どもにまったく無関心で、テレビにベイビー・シッティングをさせ、レッセ・フェール(好きなようにやらせる)で育てている親とどっちが残酷なのか」と私も思う。親としてこの点には深く共感するし、「中国式」とか「西洋式」などといったステレオタイプよりずっと大切なポイントであると思う。

Wednesday, July 20, 2011

ホットドッグに想う-トロントの物価上昇と世界食料危機

今に始まったことではないが、今日、ふと信号で止まったときにホットドッグ・スタンド(これって、本当に嫌な英語の名前なのよね…)の看板を見て「そうなのね、物価があがっているのね」と改めて思った。ホットドッグが2.99ドル(せせこましいじゃない、これって。3ドルでいいものを…)。5年ほど前には2ドルではなかったっけ?

昨年ごろから、世界中で食糧の価格があがっているが、トロントに住む私もそれを肌で感じる。日本からきた12年前には、カナダって安い! と思ったものだが、最近は昨今の食糧危機とインフレーションの影響で、とりわけ食糧・食品の値段が上がっている。とりわけ感じるのは、パンやミルク、ジュースで、なかでもパンの値段は10年ほど前に比べると20%ほど上がっているのではないか。小麦粉の値段があがっているからなのだろう。

一方で、いつまでも安いものといえば加工食品。冷凍食品やクラフト・ディナー関連、ジャンキーな食品は相変わらず安い。原材料に小麦粉を使っているようなものも、加工食品なら安いので、このあたりが疑問なのだけれど。

話は変わるが、私、いつも思うのよね。低所得者層はファーストフードやクラフト・ディナーを大量に消費する傾向があるため、肥満やそれにともなう病気・疾患に結びつきやすい、と言われるが、食費を抑えようと思えば、何を置いても野菜や豆類を食べればいいのではないか。野菜や豆類、穀類は値段があがっているとはいえ、カナダではまだまだ安い(日本に比べると。日本ではたしか、りんご1個100円だったものね)。こうした食品を摂っていれば、ジャンキーなフード以上に安上がりだし、健康によいことは間違いない。

今、ソマリア、エチオピア、ケニアといった国の一部で、深刻な飢餓問題が懸念されている。確か昨日、国連が緊急にソマリアの一部に飢餓宣言を出したのだった。旱魃により植物も育たず、次に雨が降るのは早くて今年10月であるという。今日のGlobe紙は、10人に1人の子どもが飢餓により死亡する可能性がある、と伝えていた。飢餓問題の原因はひとつではないにしろ、一要因とされるのは食糧価格の上昇である。2010年、チュニジアで始まったArab Spring(アラブ諸国の市民が民主化を求める一連の動き)も、そもそもの原因のひとつは食糧価格の高騰であった。

去年から「食料の値段は今後ますます上がっていく」と言われてきたカナダ市民だが、上がったといっても大半の市民は何とかやり繰りしながら相変わらず豊かな食生活を送っている。食料価格の高騰の影響は、まずは経済的・政情的に不安定な国々を襲うことになるだろうが、先進国に住む私たちが何もできないわけがない。カナダのInternational Co-Operation Minister であるBev Odaは今日はケニアを訪れ、飢餓問題に直面する人たちを視察し、援助金を提供することを明らかにした。1980年代のエチオピア飢餓のときとは違って、西洋諸国は昨今の世界規模の災害続きでDonor Fatigueに陥っているとも言われており、先進国の対応は思いのほか遅い。

Tuesday, July 19, 2011

カナダの大学教育と就職事情

最近、カナダで仕事探しに苦戦しているグループといえば、移民と新卒である。移民が仕事探しに苦戦をしているのは何も新しく始まったことではないが、「新卒」はかなり新しい傾向である。

たとえば、私も大学を卒業したばかりの人たちの就職サポートをしたことがあるが、University of TorontoでUrban Planningを専攻し、半年間ほど仕事を探しているが面接にさえ至らないという女性がいた(そして、私の前でボロボロと涙を流した)。同じクラスメイトも似たり寄ったりの状況らしい。彼女といっしょにUrban Planning(約10年ほど前には、トロントでは成長分野の仕事だと言われていた)関連の情報を集めたが、ポスティング(求人情報)を見ると、すべて「3年以上の経験」を要求していて、彼女のように新卒・エントリー・レベルでの仕事はまったく見当たらない。

そこで、今、トレンドなのは、大学を卒業してからカレッジや職業専門学校に行き直すか、Graduate School(大学院)に行くこと。カレッジや職業専門学校は、大学とは違って就職を目的とした学校で、1年から3年ほどで資格や専門トレーニングが受けられる。つまり、仕事に直結している。ちなみに、以前は「カレッジ」といえば、高校を卒業した人がすでに設定している仕事を得るために行く学校だったが、最近はめっきり年齢があがっている。移民のなかにもカレッジで特定の職業訓練を受ける人が多いうえ、最近の経済不況でキャリア・チェインジャー(転職者)が増えていることもある。ここ数年の不況の波にのまれず、非常な利益をあげているのがカレッジなのだ。

大学院に行くというのもひとつの方法だ。ただし、もし経済的余裕があれば、の話だが。カナダの大学生は大半が自分で学費をまかなっていて、最近の学費値上げの影響で多くの学生が返還義務のある奨学金を政府から受けている。そのため、「大学院に行く」というのは経済的に恵まれた人のためのオプションであるといえる。

カナダはここ数年間、経済的にはマイルドな不況にある。製造業やITは最も大きな打撃を受けた分野である。ただし、案外と知られていないのが、今、こうした状況でも「仕事がある」分野が存在することだ。それは、プラマーやカーペンター、電気工事といった熟練工の仕事で、こうした分野では実は人手が足りず困っている。こうした仕事は高校卒業後、見習い工として実際に経験のある職人に習いながら仕事をするわけで、カレッジや職業学校に行く必要はない。かといって、こうした熟練工の仕事がすべての人にあっているかというともちろんそんなことはない。なかなか難しいところだ。

大学を出て仕事が見つからない傾向が社会問題化しているカナダでは、大学のあり方を問いただす動きも出てきている。仕事に結びつかない勉強を教えて意味があるのか、大学を2年にすべきだ、との声も出ている。各大学もそれを考慮しながら、カリキュラムを組み直す可能性もある。私はもちろんこうした意見には反対であって、そのことはまた項を改めて書きたいと思う。

Monday, July 18, 2011

「フカヒレ」禁止の動き

トロント市では、市議会議員のクリスティン・ウォン- タムが中心となり、今年秋の市議会でフカヒレの売買、所有、消費の禁止に向けて動いている。

昨今、フカヒレを禁止しようとする動きは国際的に広がっており、ハワイとグアム、マリアナ諸島ではすでに禁止されているほか、カリフォルニアやオレゴンでもフカヒレ禁止に向けた動きが活発化している。カナダでは今年5月にブラントフォード市(オンタリオ州)が北アメリカ初のフカヒレ禁止を打ち出した(なぜブラントフォードなのか、私にはとっても疑問)。

フカヒレは中国料理では最高級の食材とされており、結婚式ではフカヒレのスープはお祝いの目玉である。親は子どもの結婚式に高価なフカヒレのスープ(10人分で8万円から10万円)を出すことで、いかに深く子どもを愛しているかを表現するという。トロントのチャイナタウンでは、現在、乾燥したフカヒレが簡単に手に入る。しかし、フカヒレを獲る獲り方があまりにも残虐であるとして、国際的に批判を浴びてきた。

漁師たちは、フカヒレを獲るために、漁獲したサメのヒレ部分だけを切り落とし、あとは海に戻す。ヒレを失ったサメは泳ぐことができず、死んでしまう。統計によれば1年間に7300万頭が漁獲されるという。2007年のSharkwaterというドキュメンタリー以降、動物愛護団体から、倫理的食材を求める団体などが強くフカヒレ禁止を声に出すようになってきた。

クリスティン・ウォン- タムは中国系でトロントでは中国系カナダ人協会の元会長をしていた人。中国系市民の間でも、フカヒレ禁止をサポートする人たちも増えてきていて、この動きを私は非常に興味深く見守っている。

この件で思い出すのは、クジラ漁に対する日本と世界の対立。最近もニュース・アイテムにあったが、日本は今も非常に頑なに捕鯨にこだわっているThe Coveという和歌山のイルカ漁を批判したドキュメンタリーもあった。日本人のなかには「クジラ漁を批判するのは日本文化を批判するのと同じ」と言う人もいるが、私はそうは思わない。文化は流動的なものだし、いろいろな社会の変化によって変わるものだ。もし、多くの日本人の意識が変われば食文化にしたって変わるもの。国際政治の舞台でほとんど何も言わない日本が、クジラのことになるとあれだけ頑なになるのは、見ていて奇妙に感じる、というか「何か裏があるんだろうね」と思ってしまう。それは一体何なのかしらね?

アメリカにおける社会秩序の推移(アメリカ国勢調査の結果)

アフリカ系アメリカ人家庭では、2人の親がいる家庭以上に、シングル・ペアレント(母子家庭が大半)家庭の数が多いという結果が、2010年国勢調査の結果、明らかになった。
「我々は、結婚している、あるいはヘテロ・セクシュアルな両親がノームであった1950年代とは違った社会へと移行していることは明らかである。とりわけ、非白人家庭の子どもたちにとってはその傾向が強い」(ローラ・スピア-Annie E. Casey FoundationのKids Countプロジェクト)

現在、アメリカの3歳以下の子どものうち、ノン・ヒスパニック系白人の占める割合はほぼ半分であり(2009年センサス)、これは同人口のうち60%以上が白人であった1990年と比べると大きな推移である。一方で、65歳以上の人口に占める白人の割合は80%、45~64歳人口では73%となっている。こうした推移は、今後のアメリカ社会における人種関係を大きく変えるファクターになると見られている。

Wednesday, July 6, 2011

女性蔑視とDV(ドメスティック・バイオレンス)

6月25日付けToronto Star紙は、バングラデッシュ出身のUBC(ブリティッシュ・コロンビア大学)の院生が夫の暴力によって視力を失い、顔面に傷を負うという事件を報じていた。UBCに留学しているRumana Monzurは、夫と5歳になる娘に会うためにバングラデッシュに一時帰国したが、夫からのDV(ドメスティック・バイオレンス)を受けて重態に陥っている。夫のHasan Sayeed Sumonは妻が他の男性と恋愛関係にあると疑っていたことから、ジェラシーによる暴力という説もあるが、詳細は明らかにされていない。この事件そのものはDVという世界に共通する問題だが、それと同時に南アジア特有の問題でもある、と指摘する声もある。

たとえば、バングラデッシュでは、60%にあたる女性が家庭で暴力を受けているという統計があり、これは他の南アジア地域でも同様である。トムソン・ロイターズ・ファウンデーションの研究結果によれば、世界で女性にとって最も危険な国としてあがったパキスタン3位、インド4位と、南アジア圏が入っている(ちなみに、最悪はアフガニスタン、2位コンゴ、ソマリア5位)。調査結果は、パキスタンでは10人に9人の女性がDVを受けていること、インドでは半数の女性が18歳未満で結婚していることをあげている。エドモントンに拠点を置くインド系カナダ人のグループIndo-Canadian Women’s Association(インド系カナダ人女性協会)の副会長は、インドをはじめとする南アジアの国が歴史的に男性優位の国である点を指摘する。

この記事を読んで思い出したのが、数週間前にインドのニューデリーでSlut Walk を開催しようとしている女性のインタビューだった。このインタビューで興味深かったのは、彼女が「最近のニューデリーでは、以前に増して男性が女性に対してあからさまなハラスメントをするようになった」「地下鉄に女性ひとりで乗ると、獣のような目で上から下までじろじろと眺める男性が多数いる」と言っていたことだ。こうした日常的なハラスメントは、女性が自由に移動し、自由に仕事をする権利などさまざまな権利を奪っている。そして、ニューデリーがインドのなかでもっとも女性に対するハラスメントが起こっている原因として、親族の誰かが政府に仕えている役人であることを挙げていた。

私の友人で、北インド出身の両親を持つシミも以前、大変な目にあっている。トロント郊外で生まれたシミは、両親の勧めでインドの男性といささか無理矢理に結婚させられた。しばらくは優しい夫だったが、次第に家庭で暴力をふるい始めた。外ではまったくそうしたそぶりを示さないため、両親に言っても信じてもらえない。暴力はどんどんエスカレートしていった。たまたまシミの母親が電話をしたとき、夫は母親の声をシミと間違って、ひどい剣幕で怒鳴り、ひどい罵声を浴びせ始めた。それでやっとシミの両親はことの重大さに気付き、離婚の手続きをとったという。シミは私に「私はカナダ生まれのカナダ人だから、インドの男性のひどい女性差別意識には我慢ならない」と言っていた。

honour killingsというのもカナダでは南アジア系の家庭にたまに見られる。これは、妻が不倫したとか、娘が結婚しないうちに妊娠したとかいう理由で、「家族に恥をかかせたのだから、死んでつぐなうべき」という論理によって女性が家族メンバーに殺されるという事件である。カナダではこうしたhonour killingは2002年以降12件、パキスタンでは年に1000件も起こっているという算定もある。

私個人もインドに滞在したことがあるが、女性蔑視、あからさまなハラスメントを幾度となく女性として経験した。インドの男性には女性は男性以下という考え方があるのを肌で感じた。先のインド系カナダ人女性協会の副会長は、「インド男性の女性に対する態度は、奴隷に対する奴隷主と同じ」であると指摘する。「暴力は恐怖を植えつけるためのもので、それによって奴隷(女性)を従属的地位に貶めさせるもの」、つまり女性に対する構造的、社会的枠組みのなかでなされているという。こうした構造的、社会的枠組みを切り倒すには革命的な動きが必要である。ニューデリーでのSlut Walkはヨーロッパやアメリカの都市で行われるもの以上に多くの意味を持つことだろう。

参考:Attack was brutal, but not unique by Oakland Ross, Toronto Star, June 25, 2011

Saturday, July 2, 2011

プライド・パレードに来ない市長


ロブ・フォードはプライド・パレードには来ないようだ。やっぱりね。

北米でも有数のプライド・ウィークが行われるトロントでは、毎年6月のプライド・パレードに市長が参加するのが恒例であるが、フォードはコテッジで家族と過ごす方を選んだ(って、それは言い訳でしょ)。

あれだけメディアで叩かれ、知名度の高いゲイ・ライツ・アクティビストやゲイの子どもを持つ親たち、市議会議員たちが懇願したのに、フォードはLGTB (lesbian, gay, transsexual or bisexual)コミュニティ最大のお祝いに市長として賛同の意を示すことを拒み、市長としての役割より自らのホモフォビア的価値を優先させた。

市長選前にはアンチ・ゲイ発言をしていたし、数年前にはアンチ・アジア系発言もしている。トロント市の最も大切としている価値はDiversityだと、トロント市は公式に発表している。フォードのようなホモフォーブがDiversityを代表する都市の市長だなんて、ほんと、どうしても理解できない(プリプリ)。

Child Care subsidy(補助金)の現実とカナダ政治

6月29日付けToronto Star紙によれば、2011年6月現在で、19,817人の子どもがオンタリオ政府からの補助金を待っているという。2005年には3000人台だったSubsidy待ちの子どもの数は過去6年で6倍以上にも増えていることになる。

私たちの家庭では、夫と私はフルタイムの学生であったにもかかわらず、このSubsidyをもらえずにいる。というのには、いろいろとわけがあって、ひょっとすると読者の方の参考になるかもしれないので、書いておこう。

カナダ政府は6歳までの子どもに対し、家庭の収入に関係なく1ヶ月に一律100ドルのUniversal Child Care Benefit (UCCB)を払っている。チャイルド・ケアといえば、2005年、ポール・マーティン首相率いるLiberal(自由党)が、国民が長らく待ち望んでいたNational child careを導入しようとしていたのだった。しかし、イデオロギーの全くちがうConservative(保守党)とNDP(民主党)が政府に不信任決議を出した結果、議会は解散、その後の選挙では保守党が勝利し、スティーブン・ハーパー首相はその後も首相として居座っているわけだが、私にとってはUCCBの導入は National child careのお粗末な埋め合わせとしか思われない。

このUCCBとは別に、政府から支払われるCanada Child Tax Benefit (CCTB)というのがあって、こちらは家庭の収入に応じて支払い金額が変わってくる。

Child care subsidyというのは、オンタリオ政府が両親とも働いている子どもの家庭に対して育児の補助金を出しているもので、州政府はこのサービスを市町村に委託しているため、私の場合ならトロント市の管轄するサービスということになる。

さて、私たちの話。
妊娠したときに周りの人によく言われたのが、「今すぐデイケアのWaiting listに申請しなさい」という言葉。トロントでは、子どもをデイケアに入れるのは簡単なことではなくて、デイケアによって、2年、3年のウェイティング・リストがあるという。産休が1年であれば、生まれる前からデイケアを探しておく、ということになるのも理に適っている。そして、エリックが生まれた1年後くらいには、Subsidyのことを知った。夫はなぜか政府からお金をもらうのがどうもイヤみたいだし、私もそんなものはどうでもいいや、という感じだったが、そのとき懇意にしていたパブリック・ナースの強い勧めに従って、このSubsidyというのを申請した。

エリックが2歳になる前、電話がかかってきた。Subsidyをもらえる順番がkたから、これから6ヶ月の間にエリックのデイケアと私がフルタイムの仕事を見つけるか、フルタイムで学校に行く手続きをするように言われた。結局、私たちはそれをしなかった。というのも、まだ2歳にもなっていないエリックを週5日間デイケアに預けるということが、私にはどうしてもできなかったからだ。それで、エリックが2歳半のときに私たちはウェイティング・リストの一番下になってしまった。

エリックが3歳くらいで私はフルタイムでカレッジに戻ることに決め、それ以降、エリックのデイケア費用をすべて実費でまかなっている。夫の大学内のデイケアなので学生料金が適用されるとはいえ、1ヶ月に1000ドルあたりを学生の私たちが払うのは大変なこと。共働きで高い収入を得ている家庭がSubsidyをもらっていたり、移住権を持たない人たち、数年後はカナダに住む予定のない人がもらっているのも見てきた。個人的に納得いかないことも多いが、この顛末があって、私はカナダのチャイルド・ケア・システムの欠陥が非常に深刻なものだと認識するに至った。

問題を羅列するなら、
1 デイケアの費用が非常に高いこと。
2 デイケアの数が足りていないこと。
3 そのおかげで、働けるべき人が働けないこと(ほとんどが女性)。

トロントでは、デイケアの費用は平均するとフルタイムで1000ドルあたり。もし、月給1500ドルほどの低賃金で働いているとすると、デイケアに入れるよりは自分で面倒をみるという選択をする人がいるのは間違いない。

デイケアのウェイティング・リストは、先ほど述べたように非常に長い。年齢にもより、年齢が低ければ低いほど待ち時間も長い。これでは、仕事への復帰や家庭の事情を計画的に考えることができない。一方では、ECE(Early Childcere Educator)の資格を持った人たちが、仕事を見つけられないという状況もある。サービス・プロバイダーとなりえる人材はたくさん生み出しているのに、就職先がないというのも、デイケアの数が少ないことが原因なのだ。

この2つの理由から、働いてしかるべき人が働けないという状況が生み出されている。そして、その対象となるのは通常は女性であり、育児に対する社会支援の欠如の結果、女性が社会で能力を発揮する機会を奪っているともいえる。結果的には、カナダ社会は経済的にも打撃を受けていることになる。

言わせてもらえば、各家庭に育児補助金を与えるなんてことよりも、まずはデイケアに補助金を与えるべきなのだ。

同じカナダでも、ケベック州ではデイケア費用は1日7ドルである。これは、ケベック州政府が個人にではなく、デイケアに補助金を提供しているからである。まずは州主導でデイケアを設置し(州立にしてもよい)、デイケアに補助金を提供する。こうすれば、ECEの人材も雇用の機会ができるし、クオリティの高い、安心して子どもを預けられるデイケアがあれば、おもに母親たちは仕事をもっと自由に選ぶことができるはずだ。

私はポール・マーティンのリベラル党がNational Child care計画を打ち出したときは子どもを作る予定も希望もなかったものだから、あのときのリベラルの敗北がどれほど自分の人生にマイナスに働くことになったかを考えたこともなかった。でも、今から考えると、上のような問題に対し、解決策を与えてくれるのはNational child careであったと強く思う。

月に100ドルのUCCBなんていらない。収入に応じてもらえるCCTBだっていらない。Subsidyに関するストレスや不公平だっていらない。毎月、子どものいる家庭に送っている補助金を、デイケアを国が率先して増やし、部分的に管理する費用に充てれば済むことなのだ。こんな簡単なことがなぜできないかというと、それはConservative(保守党)政府にそうする意志がないという以外に説明がつかない。

表立っては決して言わないが、保守党は伝統的な家族像を忠実に守ろうとする傾向がある。子育ては親がするもの、「伝統的家族」とは父親・母親に子供であって、決して母親と母親(あるいは父親と父親)に子どもではない、というのが保守派の基本的な考え方である(イデオロギー的にはSocial conservatismとなる)。
この考え方は、保守党のSame-sex marriageに対する反対、Abortionに対する反対、デイケアより各家庭での子育て推進、という姿勢に如実にあらわれていて、数ヶ月ほど前、保守党の議員が「子育ては親がするもの」というコメントを出してメディアを賑わしたが、これもそうした保守派の意見の反映と考えれば容易に理解できる。反対に言えば、National child careという案がLiberal(自由)党から出されたのはもっともなのだ(ちなみに、Social conservatismは何もキリスト教保守派の特権ではなく、移民のなかにも同じような価値に共感する人たちが多いのも興味深い)。

専門家をはじめ、多くの親たちはカナダにおけるチャイルドケア・システムの欠陥を認識していて、声をあげてはいるが、保守党が政権を握っている限りカナダがチャイルドケア・システムの変革を推進するとは到底思われない。カナダ政治をみていると、今後しばらくの間は保守党政権が続きそうであるし。連邦政府レベルでは保守党政権が5年間続いているし、先のトロント市長選でも保守派ロブ・フォードが圧勝、現在のマギンティ州政府のみが自由党であるが、残念ながら今年秋の選挙で政権を譲ることになるだろうと私は思っている。こんな状況のなか、5年前に連邦Liberalが提示したNational Child careが現実のものになるとは到底思えない。

そして、そんなこんなしているうちに私たちのエリックもチャイルド・ケアが必要ない年齢になっていく。私には、チャイルドケア・システムの欠陥はエリックが成長するに従ってよりはっきりと見えてきたわけで、本当にそれが必要な時期は子育てに追われ声をあげる気力もなかった・・・。結局、チャイルド・ケアが必要なのは子どもが6歳になるまでで、それを過ぎれば必要なくなる。一方では、カナダでこれまで数々の社会的変革に寄与してきたBaby-boomer世代は、今はもう自分たちの健康のこと、つまりヘルスケア・システムにだけ関心を寄せている。カナダのUniversal health careも、これまた欠陥の多いシステムであってそのあたりの議論に比べると、チャイルド・ケア議論は勢いを欠いている。

というわけで、チャイルド・ケアという問題が政治的課題になるのは簡単なことではない。カナダのチャイルドケア・システムは、破綻は確実なのに(ケベックをのぞいて)手の施しようがない、というブラックホールのなかで忘れ去られてしまったかのようだ。